H.S さん 自分へのインタビュー
- 2008年2月20日(水) 14:25 JST
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- 投稿者:
- e-gumi
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5期生、北海道のH・Sです。
課題その1
●「初めて読む人がどんな人か分かり、なぜ、SBS(or1年E組)に入った
か分かる記事」
直接的な理由は、夫婦で農家を始めようと生活のあり方を改めて考えたとき
SBSの?いのちと価値観を大切にする仕事づくり?ということばが、そのときの
私達の出発にピッタリあてはまる表現だったからです。
間接的には、それまで自分の経験から いろいろなことが準備されてきた
ように感じています。そこで、ここにいたるまでの簡単な自己紹介をさせていただきます。
1961年に大阪で生まれる。東京オリンピック、大阪万博と日本の高度成長期の
流れるような時代の中 幼児期を過ごす。
両親も大阪出身なので、田舎のある友達がうらやましかった。
その頃なりたかった夢は、山のキャンプ場のお兄さんやお姉さんだった。
(大学生のボランティアの人だったと思う)
夏休みは、いろんな団体のキャンプに参加し殆ど山でのキャンプ暮らしだった。
薪を割り、川で野菜を洗い、火をおこし、料理をする。
ロープの結び方を教えてもらい、テントを立て、寝袋で寝る。
朝日の出る前に、山頂に上り 朝日を見ながらトマトとチーズとパンを食べる。
夜は、みんなで火の回りに集まり唄を歌い、いろいろな話を聞いたり話したりする。
落ちている小枝でクラフトする。散歩をする。歌を歌う。絵を描く。
小鳥を観る。花を診る。木を見上げる・・・・。
山での生活は、小学生の私にはあこがれだった。
中学進学のときに 父の仕事の関係で大阪のベットタウン枚方市に引っ越す。
その後、受験戦争に巻き込まれながら、思春期から青春期を過ごす。
22歳、学生時代の強い親への反抗期もあり、経済的な自立(幼かったな?)を希望し家をでる。
一人暮らしは、経済観念を養わせた。
その頃の仕事は、スイミングスクールのコーチだった。
入社の同期は、学生時代からの水泳経験とベビーからシニアまで
幅の広い人たちと関わっていけることだった。
時は、ちょうど丸紅ロッキード事件のあと、バブル時代始まりだった。
ここで、私は水泳の指導以外にもたくさんのことを学んだ。
私の提案した企画で 会員がどんどん増える。
スイミングスクールは、繁盛し会社が大きくなる。
銀行の人と話す。豪勢な会食をする。北新地で接待する。
お給料が上がる。役職が着く。引越しを5回もする。車を乗り換える。
スイミングスクールがフィットネスクラブと拡大し、私は、マネージャーになる。
異業種とも新企画を作り出し、イベントを企画したり、広告を作ったりと・・・。
忙しいことが好きだった。
忙しいことが、働いているという実感をもたせ空っぽの自分に自信を持たせていた。
スケジュール帳に予定がいっぱいなことが 社会とつながっていると思っていた。
海外研修にも会社の経費でたびたび訪れた。
移動手段が線から点へと変わった・・・・。
でも、ときどき
「何かがへん?何をやっても心が満たされない・・・。」
「やった!よかったね。という喜びはどこからくるの?」
30歳。
現場(指導部)に戻ることを強く希望したが、会社から認められず退職する。
スタジオを借り、エアロビクス教室を始める。
人と共に喜びを分かち合いたいことを希望し 会社を退職してまで
エアロビクスダンスの指導に戻ったのだが・・・家とスタジオの往復の毎日の中
自分の向かう方向性を捜し求め、迷い始まる。
その頃の楽しみは、週末に海に潜ることだった。
酸素を背負って潜る、スキューバーダイビングだ。
初めのころは、いろんな海に潜りに行っていたが、
あるときから、私は同じ場所に潜るようになった。
そこで出会った、ちいさなちいさな生き物たち。
他のダイバーには、目にも留まらない小さな生き物。
「じーっと診ていて、アッ!何か動いた。これなにやろ?」
地上から見れば、何の変化も無い普通の海。
その海の中に生きる小さな生き物に 私の目は、覚まされた。
しばらくして、スタジオを閉め、知り合いも つながりも何もない
ひっそりとした過疎化されつつある その海のその町に移り住んだ。
来る日も来るにも、「チョットごめんなさい。」
そーっと、そーっと、息を凝らして水中写真を撮った、撮った、撮った・・・。
収入ゼロ。出費のみ。
働かず、ひたすら潜り、それまで蓄えていたお金を切り崩し
「健康第一!お金がなくなったら、働こう!」っと その生活に没頭していた。
1年ぐらい経ったある日、従姉妹が家族で、海水浴に泊りに来た。
従姉妹と夫と長男4歳と次男8ヶ月。
海水浴に行く朝、私は台所でお弁当を作っていた。
隣の部屋では、従姉妹家族が寝ていた。
ドアが開いていたので、何気なくその部屋に目を向けると、
8ヶ月の男の子が 襖を持ってつかまり立ちをしていた。
その姿は、(後姿ですが)とっても満たされた様子だった。
しばらくその姿に見とれていたら、そーっと片方の足を横に出し、
ゆっくりと体重を移動させバランスを崩さないようにもう一方の足を近づける・・・
その行動が繰り返され、ようやく、襖の端にたどり着いたとき、
なんともいえない、微笑みの表情。
誰に対しての、微笑でもなく、自分自身への・・・微笑・・・・?
私は、その時この子どものなかで何が動いているのか、
その魅力に引き着けられた。
「今、目の前で起こっている 子どもの内の命の成長?」
それまで、無縁だった幼児教育、子どもの命の成長へのお手伝いへの道が
8ヶ月の男の子の内なる微笑によって導かれた。
この出来事のすぐ後に、近くの保育園に、
「無給でもいいから、子どもと関わりたい!」と
自分がここに至るまでの動悸と願いを書き綴った。
しばらくして隣町の保育園の園長先生から、
「明日から勤務できるなら、今から面接に来てください。」と
連絡を頂き、次の日から臨時保育士として働かせていただくこととなった。
翌年、資格を取るために大阪に戻る。
資格取得後、今後進む方向性を確認するため、
リックサック背負って渡米した。
ユースホステルを宿とし、いろんな国の人と話した。
それぞれの生き方や価値観を知った。
旅の目的は立てずに行った先で 次の移動場所を決めた。
予定は、入れない。無理はしない。
自分で出来る わずかなことを確かめた。
1995年
アメリカで観たものは、大量生産の大量消費の後始末。
社会が成長する裏側で生み出された、数々の問題。
予防医学として始めた、フィットネス産業もそのときはすでに
飽食の時代、グルメの時代に大量摂取したエネルギーの
後片付け・・・・・?
「私がしてたのは、エネルギー消費のお手伝い?」
大きなハンバーガーを食べている人の横で
自分の内が これまでお金や物では満たされなかった理由や
矛盾、社会のあり方など・・・、荷物も持たず、ただ座って考えた。
短い旅ではあったが、言語もたどたどしい不自由な一人旅は
自分と向き合う大きなチャンスだった。
帰国後翌年から、幼児教育の現場に入った。
毎日の子ども達との生活の中、子どもの本来の姿、成長の姿を学びたく、
モンテッソーリ教育に出会った。
そこには、あの8ヶ月の男の子の微笑みの内なる秘密を解く鍵があった。
”命の成長のお手伝い”
子どもの内なる可能性が開花し、その子ども達が成長したとき世界に平和は訪れる。
しかし、内なる可能性は、適切な環境と援助があってのみ開花される。
子どもは、環境を自分で選ぶことも創り出すことも出来ない。
環境を作っているのは、私達大人だ。
私は、2年前に幼児教育の現場から離れ、新規就農で夫婦で花弁を栽培・生産している。
子ども達との生活の中、植物のことをもっと知りたくなり、
土や水や空気や自然のことを、実践を通して学びたく、農家になった。
人間が生まれる前に生まれていた
よりシンプルな命の成長のプロセスを知ることによって、
人間の命の成長、成長のプロセスを見出せるのでは・・・と、
種を蒔き、環境を整え、成長を見守っている。
農家になるときに SBSを紹介してくださった人がいる。
モンテッソーリ教育もSBSも「もっと、ゆっくり・・・・が共通しているよ。」と
「スローリー、モア、スローリー・・・」と
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