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 2008年7月26日(土) 02:28 JST

パートナーと神話的時間

  • 2008年3月22日(土) 17:21 JST
  • 投稿者:
    e-gumi

パートナーと神話的時間。

Y・H SBS1期生

Y・Kという名の女性と暮らして8年になろうとしている。

いつしかそこに二人の男の子も加わり家庭ができた。


今、彼女と面と向かって会話をしつつ、思う。

「いつ、彼女はそのコーナーを曲がったのか?」と。

笑費量、不満抱え指数、エコ率など、幸福総生産の全
体量をかんがみるに、明らかに自分より彼女の方が高い。

いや、それは競うものでないということはわかっている。


わかっていてあえて言うのは、彼女が私がまだ曲がり終
えてないコーナーをすでに曲がり終え、自分の進む道の
正しさについての確信が私より深いということを伝えた
いため。

過ごしている時間の質が、彼女と私とでは明らかに違う
のだと思う。

ゆったりとして焦らず、のほほんと。

仕事で嫌な想いをして、薪を蹴っ飛ばしつつ帰宅したと
きも、彼女と二人の子どもを取り囲む空気に触れると、
それまで怒っていた自分が溶解していく。


あほらしく感じてしまうというか。


逆流することなく、絶え間なく未来へと流れる彼女の時間。


それを、「神話的な時間」と彼女は言う。


神話的時間。この世の成り立ちを物語るプロセスが奏でる
時間。

命を体内に授かったときから始まる子育ちを通して、彼女は
その時間を体験したという。

何もないところから、体内に生命が宿り、そこから人間が形
成されていく。

そのプロセスに文字通り密着しているのだから、神話的な時間
を感じるのも当然といえば当然。

そして、幸いというべきなのだろう。

彼女は今もその時間のなかに生きている。


だから、なのか、

いきなりフンドシ姿の夫を前にしても平静を保ち、それだけで
なく新たにフンドシを作ってしまう。

そんな落ち着きを育む、神話的な時間に私はあこがれる。

その秘密を知りたくて、彼女に聞いてみた。


 「僕と結婚する前は、大学の教務員や小学校の司書という仕事
をしていたわけだけど、母親という役割を仕事としてとらえたと
き、そこにどんな違いはあるのかな?」


彼女はこう答える。

「決定的な違いは、母親という仕事に出社時間も終業時間もない
ということ。24時間、母親は母親でなければいけない。」

そうなのだ。24時間母親であること。それはつまり、時計が刻
む時間などまるで意味がないということ。私たちを取り囲む時間、
価値観を取り払ったところに、神話的時間はあるに違いない。


さらに僕は彼女聞く。


「母親になって、母親になる前と比べて変わったことはある?」

「変わらざるを得ないというか。一人で生きていた頃のように、
何でも自分の計画通りに合理的に物事を考えていたら、子どもに
とっても自分にとっても無理がくる。あるとき、もう「やれる範
囲でいいや」と、自分の都合は諦めた。それから楽になったよう
な気がする。」


いつだったか。彼女がふと、こんなことを言ったことがある。

「大丈夫、もうソウタとの信頼関係ができたから」

彼女は多分、その時に神話的な時間に己が波長を合わせることが
できるようになったのだ。


それを確認するために僕は聞く。「そう思えるようになるまで、
しんどかった?」

そうねえ。助産院の先生からも、「とにかく赤ちゃんに合わせな
さい」と言われていた。頭ではそれはわかっていたつもりだった
けど、どうしても合理的に物事を進めていこうとする自分を捨て
きれてなかった。子どもと一緒にいながら、無意識のうちに計画
を立ててしまう自分がいた。」

今はどんなふう?

今は子どもと遊んでいる合間に、家事や自分のやりたいことをして
いる感じ。以前はそれが逆だった。


今の生活に不満とかあります?

不満って結局、自分で作りだすものでしょ。無理して不満を作りだ
す必要もないし。

そうした考え方を彼女は子どもとの子育ちを通して培ってきたのだろ
う。それは彼女が苦しみながらも体得した財産に他ならない。


さらっと、不満は自ら作りだすものと言い切れる彼女が、正直僕はうら
やましい。


それは女性の特権なのかと思い、つい問いかける。

「子育ちを通して学べることを期待していた?」


「特に深くは考えていなかったなあ。好きな人と暮らしているのなら、
自然に抱く想いだと思うけど。」


その肩の力の抜け様ように、こちらも脱力してしまう。


自分がそうした神話的な時間を体験できるのはいつの日なのか。


ずっと先のことなのかなと思っていたら、つい最近、「あ、これなのかな
と、思う瞬間があった」

お正月休みのこと。
ほぼ1週間。私はひたすら薪料理の研鑽に励んだ。
  朝、起きて、まず薪ストーブにはもちろんのこと。オ?プンデッキに移設した
カマド&窯にも火を入れる。これにダッチオーブンを加えた、我が家の薪料理ト
リオは最強の布陣。餅つき用の石鉢も手に入り、いつしかオープンデッキは不思
議な台所になってしまった。
   
いずれ、オール薪化を目論む私にとって、薪での調理は大いなる挑戦。図書館
で借りた薪料理の本を読みつつ、ひたすら料理に励んだ1週間。挑戦した料理は
次の通り。イングリッシュマフィン、ピザ、おでん、カレー、野菜の蒸し焼き、
ポトフ、おもち、パスタ。

どれもこれも美味しかった。特に、ポトフをベースにして作ったカレーは、薪
ストーブの上でコトコト煮込まれ、その溢れ出す旨味はダッチオーブンのなかで
ガッシリ蓄えられた末に絶品となった。普段はカレーは食べない1歳のヒナタも
大喜びで食べるほどのまろやかさ。それは、薪の熱とダッチオーブンの力がなせ
る技なのだろう。

それにしても、不思議な正月だった。

普段は帰省して、家でゴロゴロしつつ、テレビを眺めて過ごすのに、今年は訳
あってずっと自宅で過ごした。我が家にはテレビはないので、当然、お笑い番組
も、紅白歌合戦も遠い世界の話。

私は何をしていたかというと、森を歩いて焚き付け用の薪を集め、チェーン
ソーで丸太を切り、斧で割り、それを運んだ。その途中で、薪小屋が欲しくな
り、その辺りにあった木で簡単な薪小屋を作った。お腹が減ると、火を起こし、
お湯を湧かした。

カマドや薪ストーブの煙突から出る白い煙は山からの逆光線に揺れ、乾燥した
薪は踊るようによく燃える


雪の舞う空を見上げた時だ。私が、「これが神話的時間なのかな」と感じたのは。


私は、不思議な解放感に私は包まれていた。

私は何から解放されたのか。その筆頭は、まずテレビ。正月と言えばテレビを
思い浮かべるほどに、私はテレビ中毒になっている。それだけに、その電波が及
ばない領域にいることが、新鮮な体験として残ったのだろう。

次に、お金。いわゆる「円」というもの。この正月、ほとんど食費以外にお金
は使わなかった。

さらに、灯油(石油)とも無縁。黙々と燃え続ける薪の、自然の恵みの、文字
通りの温もり。

テレビとお金、そして石油から解放されたその感覚の、何と静寂なること。身
体の底からあふれてくる安心感、幸福感。手は枝となり、足は幹となり、いつし
か私の身体は森と同化していく。そんな予感に包まれたひととき。


もし、いわゆる「死」というものの先にも営みというものがあるのなら、こうし
た時間の延長にあるのかもしれない。


そのとき僕は、今ここにいるという幸福に耐えるのに精一杯だった。

そして、ちょっと自慢げに彼女に言った。


「ぼくも少しわかったよ」と。

ふふ、とすこしだけ笑う彼女。その目元には、ちょっと怪しげな魔女のような微
笑が浮かんでいた。
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